2月22日

 私は武満さんに『フィネガンズ・ウェイク』の、隣接する文節を意味でつないで進める伝統的な小説とは逆に、まるっきり切り離す方が、根本的なものの展開を徹底して自由にする、と話したのだった。*1

 日記はまさに、つながりのない断片とならざるを得ない。前日からのつながりという意味での連続性は、かろうじて自らの内部にしか存在しない。そういう意味で、日々の断片をつづることは、コンステレーション(星座)を建設するような無理事である。けれども、それは圧倒的な自由なのかもしれない。自由に、積み重ねて、獲得しながら前に進むような、日々の感慨が好きだ。

 今日はそうそうに仕事を切り上げ、会社のバレーボール部へ行く。足を攣りながら、手を振り、ボールを強打する。知らぬうちにあざができ、指の皮がむける。疲労と痛みが心地よく、充実していると感じる。バレーは特に、肉体のままならなさを感じておもしろい。そこに打ちたいのに、そこに飛びたいのに、反射や本能に思考が凌駕される。その刹那的な感触がクセになる。他者も、自らも、「ままならないこと」がアツいと思う。

 

*1:大江健三郎『親密な手紙』,岩波新書,p.50,