2月24日

 目を覚ますと外が明るい。向かいに建設中のマンションの、重機の乱雑なリズム。気だるく、掃除や皿洗いなどをしていると4時くらいになってしまう。思い立って早稲田へ出かける。

 都電荒川線に王子から乗り込む。休日・平日問わず、そのキャパシティの少なさと、住宅街を通り抜けるからか、常にごった返している。窓際に立っ講談社文庫の堀江敏幸『熊の敷石』を読み始める。横に立った女性の顔の輪郭が、文庫本の紙面に投影され、鼻先や、くちびるの形などが読み取れる。本は全く読めなかったけれど、他人のそうした身体性が影とはいえ目の前に差し出されるのは久しぶりで、はっと新鮮な気持ちになる。

 面影橋で降り、書店の通りまで歩く。浅川書店で伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫)、大江健三郎『新しい文学のために』(岩波新書)を買う。少し歩いて渥美書房でトドロフ『異郷に生きる者』(法政大学出版会)を買う。これは今日一番の収穫といえる、研究に資する本となる。道を渡り、虹書店にて柄谷光人『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』(講談社)、イーグルトン『批評の機能』(紀伊国屋書店)を買う。ここで初めて、最低価格が20円のワゴンを見た。良本も多く、本当にびっくりだった。20円のベルクソン『笑い』(岩波文庫)、『佐々木幸綱歌集』(短歌研究文庫)を買う。けっきょく2000円くらいにしとこう...とか思ってたはずが、6000円くらい買ったことになる。本となると財布のひもが緩む。そして悪質なことに、そこに対して後悔も生じにくいのだ。

 高田馬場まで歩いて、帰ろうと思いたつ。道すがら、腹が減ったのでDumpling +1みたいな名前の店に入り、餃子を食う。15個入り、エビ、ニラ、卵などが入ったバラエティに富む味がした。本場中国の餃子らしく、店内に日本人と分かる人は少なかった。カウンターの二つ横のおじさんが、中国人留学生の女性に時には英語も交えながらいろいろ質問していた。おれが食事を終えようというときになると、おやじは酒が回ったのかほとんど日本語を押し付けるようになっていたが、その女性はアクセントこそ中国語の癖が残っているものの、日本語を難なく操っていた。中国語に満たされた異国的空間で、留学していた時の心象が少しばかり疼いた。

 三連休の中日にして心地よい疲労感と充実感だった。外出してたしかに疲れたのだけれど、家に新しいものがある、という高揚感で眠れないかもしれないなと思う。

 

2月23日

 ひどい一日というのは、何か劇的に悪事があった日のことというよりかは、まったく何もせず、寝てたりゲームしてたり動画見てたりで空費される日のことを指して言う。まったくひどい一日だった。11時くらいまで寝て、昼は豆腐と白飯を食い、夕方から出かけるぞ!と思いながら夜の20時まで二度寝をしてしまった。飽き性の自分だが、睡眠だけは素晴らしい持続力で続いている。

 ガストの大盛のご飯を食べたいなと思って駅前の店まで行くが、ウェイティングに老人が五人くらい座っていて萎え、スーパーで総菜を買って帰る。何もかもが高い。夜九時、揚げ物などは特に安くなるはずだが、一枚肉のとんかつは300円ほどで、買う気にならなかった。明日こそは料理でもしてやろうとか思ったが、雨続きで気力もないので、いつもの冷凍生活は続く。日々はこの塞がりと弛緩。会社の食堂とか、みなが弛緩しきった、油断しきった表情で、何も考えず飯を食っている。その中に身を置くことの、やりきれなさ。ここを目指して努力したのか、という嘆息が、冬の寒さと重なって身を貫いてく。

 研究はというとほとんど進まなかった。坪井秀人『戦後表現 Japanese Literature after 1945』(名古屋大学出版会)の第Ⅰ部をようやっと読み終える。復員小説のパラレリズムは、石原吉郎論にも援用できそうだと思い、やや明るい気持ちになった。何かしら自らに引き付けて読める読書はいつも愉しい。

2月22日

 私は武満さんに『フィネガンズ・ウェイク』の、隣接する文節を意味でつないで進める伝統的な小説とは逆に、まるっきり切り離す方が、根本的なものの展開を徹底して自由にする、と話したのだった。*1

 日記はまさに、つながりのない断片とならざるを得ない。前日からのつながりという意味での連続性は、かろうじて自らの内部にしか存在しない。そういう意味で、日々の断片をつづることは、コンステレーション(星座)を建設するような無理事である。けれども、それは圧倒的な自由なのかもしれない。自由に、積み重ねて、獲得しながら前に進むような、日々の感慨が好きだ。

 今日はそうそうに仕事を切り上げ、会社のバレーボール部へ行く。足を攣りながら、手を振り、ボールを強打する。知らぬうちにあざができ、指の皮がむける。疲労と痛みが心地よく、充実していると感じる。バレーは特に、肉体のままならなさを感じておもしろい。そこに打ちたいのに、そこに飛びたいのに、反射や本能に思考が凌駕される。その刹那的な感触がクセになる。他者も、自らも、「ままならないこと」がアツいと思う。

 

*1:大江健三郎『親密な手紙』,岩波新書,p.50,

2月21日

 寝る前に書いている。昼の三時から夜の七時まで会議で、会社の休憩室でカレーメシなるカップ麺を食い、しぶしぶ十時まで働いた。本当に帰りたくてたまらない日と、今日は特にいつまででも働けるな、という日がある。概して、暇な一日のほうが帰りたくなってしまうのは、家のほうが質の高い「暇」を謳歌できるからだろうか。さように骨の髄まで効率主義になっているのは少しさもしい気もするのだが、それはそれとして家の前のコンビニで普段買わないワンランク上のアイスクリームを買う。The taste of reward. ご褒美を食べるときは必ずこの一節が出現する。一日の労働に報いるように、細やかに自らを慰め、一日の円環を閉じるさまはまるで日記の営みそのもののようである。塞がった生活は続く、日々だけが、季節だけが、巡り進むよう。

2月20日

 父は日記を書く人間で、ルーズリーフに欠かさず30年ぐらい日記を書き、紙束の山のいよいよな重量に驚いた思い出がある。おれは何もかもが続かない人間で、心臓の鼓動と睡眠の習慣ぐらいしか持続するものがない。抗って書いてみる。意識して書いてみる。忘れないように、ではなく、日々忘れながら、書くために書く。一日を通時的に分解するのではなく、トピックもまばらでよいと思う。とにかく何も決めないことが肝要な気がする。

 19:00に仕事を切り上げて、帰宅。『日本近代文学』第105集の、多田蔵人「言葉をなくした男 ―森鴎外舞姫』―」をようやく読み切った。『舞姫』といえば日本人エリートの太田とドイツの少女エリスとの恋愛譚。擬古文調の独特なリズムに翻弄されてまともに読めてなかったような作品だが、言われてみれば太田の翻訳と翻意によって、エリスの生の声はかき消され、太田も沈黙へと追い込まれる。坪内逍遙はじめとする記述主義への異議申し立てとして『舞姫』が読めるという、目から鱗だらけのすばらしい論文だった。